やめないことの意味

こんにちは、やなべです。

以前のブログから通算して、毎日更新を始めてから七十日ほど経ちました。よくもまあ、こんなに続いたものです。毎日、ネタがないと途方に暮れながらも、パソコンやスマホに向かって文章をつらつらと書き連ねていると、なんとなくまとまった方向性のようなものが見えてきて、「今日もなんとか書けた!」となります。私は、続けることに意味があると思うたちで、続けるからこそ見えてくる世界があるとも思っています。しかし、最近は続けるのと同じくらい、休むことも必要だと感じるようになりました。以前は、「休むとそのまま二度と書かなくなるのではないか」と不安になっていましたが、そうやってがんばり続けるのも何か違うと思うのです。先日、このような本を読みました。

この本のタイトルのとおり、著者のいしかわさんは自分の欠点をそのまま受け入れて、堂々と公開して執筆活動をしている人です。私のようにあまり読まれないブログではなく、多くの目に触れる書籍において自分の欠点をさらけ出していくのは、色々と悩んだ末に辿り着いた結果なのだと思います。そして、この本の中に次のようなことが書いてありました。

わたしは努力するのが苦手です。それに、継続するのも苦手です。でも、「やめなければいつかなんとかなる」と思っているので、あえてやめることはしません。今こうしてライターになれているのは、努力をしたというよりも、「文章を書くのをやめなかった」からだと思っています。

やめないということは、イコール「休んでも結局再開して続ける」ということだと思います。やめるのにはパターンが二つあって、①がんばって続けているうちにある日糸がぷつりと切れたようにやめるのと、②休んでだんだんフェードアウトしてやめるのがあります。私はどちらのパターンも経験しましたが、①はもうやめることが解放感でしかありません。この場合は、本当に「向いてなかった」のだと諦めがつきます。問題は②のパターンで、この場合は後ろ髪を引かれながらも、休みが長くなっていき結果としてやめてしまうというものです。②になるのが嫌で休めないという心理が、私にはあります。しかし、こうも思うようになりました。「休んでも再開する気になるかどうかが、向いているかどうかの指標になる」のではないかと。

私の場合、思えばピアノもそうでした。途中で休むことがあっても、「もう二度と弾かないだろう」とはなりません。休んでも、またどこかのタイミングで再開するだろうくらいに思っているものは、結局続いていくものです。人間関係もそうかも知れません。一度、何かのタイミングで離れてしまってもまたどこかで交流が深まるのが、長く続く人間関係です。この関係を続けなければならないと思いながらの人間関係なるものが仮にあるとすれば、それはどこかでぷつりと糸が切れたように消滅するような気がします。結局やめないものが残る、というと当たり前かも知れませんが、後から振り返るとそういうことになると思います。「きっと休んでもやめないだろうな」と思えるものがあれば、それは「向いている」ということができそうです。

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