すぐに理解しなくていい

こんにちは、やなべです。

すぐに理解したいという焦りは、私はひとつの病理だと思っています。これは自戒を込めて言うのですが、答えを見つけようとして焦るときというのは、だいたいにおいて根本的な解決には至りません。私の場合は、精神的な不調に対して、いっこくも早く原因を追究していまの状態から抜け出したい、という気持ちがあり自分の不調を理解しようとします。しかし、それは徒労に終わることが多く、理解したいのに理解できないという板挟み状態になり、さらに精神を擦り減らしてしまいます。そして解決できないモヤモヤした気持ちを抱えながら生活しているとある時、ちょっとしたきっかけで回復していた、ということも間々あります。

理解できるという幻想

学校では、大多数の生徒が理解できることを、先生が分かりやすく教えてくれます。会社でも、問題を理解し解決することが求められます。どちらの場合も、すぐに理解できることを目指しています。しかし、このすぐに理解できるという前提が、そもそも間違っているとするならば、私たちは無理を強いられていることになります。もちろん、取り合えずの答えを出すことは実務上必要にはなりますが、根本的な解決はすぐにはできないというのが真実だと思います。なので、なんでも今すぐに解決しないといけないというのは非常に疲れます。もしかしたら、一生解決できない問題もあるかも知れません。

素読の良いところ

意味は分からないけれど受け入れる、という経験が必要なのではないでしょうか。すぐに理解できないことに慣れる練習をするのです。江戸時代の寺子屋で行われていた素読に注目してみたいと思います。寺子屋では孔子の論語を暗唱するという授業が行われていました。もちろん、読んでいる子供は内容を理解していませんし、理解することは求められていません。批評家の小林秀雄さんは素読について次のように言及しています。

暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。

素読のすすめ

もしかしたら一生理解できないかも知れないけれど、目の前にあるそのものを学んでいくことが大切だと思います。それが後になって、何らかのきっかけで思い出されて突然理解したときに、根本的な理解というものがやってくるのだと、私は信じています。日々の生活の中で理解できないことに焦ったときには、この原点に立ち返る必要があります。そのためには、現代版寺子屋の素読を自分でやってみると良いと思います。そもそも理解しなくていい、という解放感は想像以上に大きいものですし、それがいずれ理解できるかも知れないという希望がそこにはあります。ちなみに、私のおすすめ素読本はこちら。ぜひお試しください。

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